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シリア内戦、難民問題-随時更新【1ページでわかりやすく解説】内戦の原因から現在(2016.3)の状況まで

更新日:

「シリア内戦」や「シリア難民」について、わかりやすく解説してくれているサイトは多くありません。

争いは2011年から始まり、すでに5年を経過しているのでもちろん状況は当時と変わっています。

最新のニュースを見てわからないところがありネットで検索しても、出てくる情報は昔のものや最新のもの、断片的なものばかりで、過去と現在を上手く結びつけることがとても難しいのです。

ここではなるべく誰にでもわかるように、ことの発端からどのようにして現在の状況に至ったのか、わかりやすいことばで解説していきます。

 

2016年6月追記

最新情勢はこちら↓

最新シリア情勢【2016年3月~】内戦・難民の現在

世界中で報道されているシリアの難民問題

日本ではあっさりした報道のシリア内戦・難民問題

「シリア難民」と聞くと、「シリアという国内で内戦が起きていてそこに住めなくなった人が難民となっている」ということはわかると思います。

日本で放送されているニュースは冷たく、途中からしか知らない者に改めて初めから説明してくれることはほとんどないのです。

だから何故そうなったのか、はじめはどうだったのか、わからない人も多いのです。

 

2015年に公開された、水際に男の子が横たわっている写真(おそらく亡くなっている)がすぐに全世界に広まり多くの人の目に触れました。

参考 AFPBB News

これにより、今まで関心のなかった日本人も海外の人も、シリアの内戦や難民の状況を気にするようになりました。

関心を持ち、その状況を追っていた人々もどうにかすべき問題とより真剣にとらえるようになりました。

 

参考URLの写真については不確かな情報でもあり、一部海外では報道されていましたが、難民ではなかったのではないかという説もあります。しかし不幸な子どもたちが数えきれないくらいいる事実には変わりがありません。

 

内戦が起こる2011年までのシリアの歴史をおさらい

シリアとは?

まずはじめにシリアという国について説明します。シリアとは『シリア・アラブ共和国』というひとつの国家を指す場合と、その周辺の「レバノン」や「パレスチナ」を含めた地域を指す場合とがあります。

 

現在問題になっている「シリア難民」とは元々は『シリア・アラブ共和国』の国民であったが内戦により居場所を失った人たちのこと、です。

 

島国である日本とは違い、周辺諸国との宗教の違いや歴史的背景などから争いごとがなかったわけではありませんが、それでも騒乱が起こる2011年より前のシリアは、日本となんら変わりのない、平和な国でした。

 

争いの一番最初のきっかけ

極めて簡単に表すと、元々は、

シリア・アラブ共和国(以降、シリア)で起こった、異なる宗教を信仰するもの同士の争いです。ここで注意するべきことは、争いの直接的な原因は「宗教のちがい」ではないということです。

 

「非民主主義的な統治を行うアサド政権(政府)」に対して「国民が民主主義化を求めた」のです。

 

シリアについてまとめたサイトや、他サイトの引用を集めたサイトなどを読むと、宗教間の戦争だという書かれ方をしていたりします。

 

しかし、ことの発端は、「民主主義化を訴えた国民vs権威主義的なアサド政権」であり、それも初めは戦争なんかではなく民衆が政府(アサド)に対して「生活の改善や汚職の追放を求めた」デモ運動でした。

 

もともと知っておくべき知識として、現在のシリアが独立した国家となるまでには、フランス領であった時代やエジプトと連合国家であった時代があったり、幾度となく反乱やクーデターがおきたりしました。

なかなか安定した国家とならず、ようやく1961年に「シリア・アラブ共和国」として独立した国家になりました。

 

紀元前までさかのぼると多くの人が歴史で習ったことのある「ローマ帝国」や「イスラム帝国」につながる歴史の古い地域ですが、シリアという国になってからはまだ歴史が浅いのです。

 

今の大統領が属している『アラウィー派』『バアス党』とは?

1963年にバアス党という政党が、シリアの政権を獲得します。

バアス党が掲げていたものは「アラブ民族主義」といって、『アラビア語を母国語とするものは出身、住まい、宗派関係なくみんなアラブ人としよう、アラブ人としてシリアをおさめ統一アラブ国家をつくりましょう』という考え方です。

 

現大統領はバッシャール・アサドといいます。父親もその前の大統領でハーフィズ・アサドといいます。

アサド家はイスラム教の中の『アラウィー派』を信仰しています。

 

シリアで『アラウィー派』は人口の1割程度です。それなのに『アラウィー派』であるアサド政家が政権を握っているのには理由があります。

『アラウィー派』の歴史は古く11世紀より前から存在しますが、その頃からイスラム教の中で異端扱いで多くの迫害を受けてきました。

 

第一次世界大戦後フランスがシリアの統治を担当することになると『アラウィー派』は力をもっていた別の宗派『スンニ派』の支配を嫌い、すぐにフランスの味方につきました。

『スンニ派』から差別や迫害を受けてきた歴史があるからです。

フランスは軍事組織や治安組織に親フランスである『アラウィー派』を迎えました。

 

これまで迫害され貧しく少数派だった『アラウィー派』はフランスに協力的な姿勢を見せることで、政治力や行政力を手に入れました。

両親がともに『アラウィー派』でないと教義を学ぶことができない宗派の性格もあり、信仰している人口は増えませんでしたが、確実に社会的に地位は上昇していきました。

 

しかしシリアがフランスから独立すると、再び議会的には『スンニ派』の支配がはじまりました。

『アラウィー派』は政治力を失いましたが、その代わりに実力主義である軍隊に入り、軍の中では影響力を強めました。

 

その頃、バアス党が設立。バアス党が掲げていたのは社会主義、世俗主義です。

世俗主義とは、政教分離主義のことです。つまり、特定の宗教が権力を持つのではなく、宗教から独立した権力が国家を統治するべきだ、という考えです。

これは少数派である『アラウィー派』にとって、とても魅力的でした。多数派である『スンニ派』の支配にうんざりしていたからです。

バアス党に『アラウィー派』が続々入党しました

 

今の大統領であるバッシャール・アサドの父親、ハーフィズ・アサドもこのバアス党に入党した若者のうちのひとりでした。

政治的にはまだ安定せず『スンニ派』の将校たちが権力闘争に明け暮れて、その後がまを『アラウィー派』が埋めていき、少しずつ影響力を強めていきました。

 

1963年となりの国イラクでもバアス党が台頭しクーデターをおこし、バアス党政権が誕生しました。

イラクに触発された形でシリアでもクーデターが起こり、ついにシリアでもバアス党が政権を獲得しました。

 

しかしまだこの時点では『スンニ派』や、その中の社会運動組織『ムスリム同胞団』の反乱もあり、バアス党の基盤は不安定でした。

 

アサド政権(アラウィー派・バアス党)の独裁

ハーフィズ・アサドが大統領になる前、シリアは『第三次中東戦争』でイスラエルを相手に惨敗しています。

シリアがイスラエルを攻撃する理由は、バアス党の『アラブ民族主義』にあります。

アラブ人が一体となってアラブ統一国家をつくりましょう、というこの考え方に反して、アラブ地域の一部である『パレスチナ』をイスラエルが占領していたからです。

イスラエルから取り上げたいので攻撃をしますが負けてしまい、さらには領土を奪われてしまいます。

 

イスラエルの領土拡大に怯えたハーフィズ・アサド(現在の大統領の父親)は他人に外交を任せることに不安を感じ「自らシリアを支配しよう」と決意し無血クーデターを起こし、1971年には大統領に就任しました。

アサド政権の誕生です。

 

アサドが『アラウィー派』だったため、必然的に『アラウィー派』の人達は貧困から脱していきます。

軍事的にも政治的にも影響力を強めた『アラウィー派』のことを気に入らない『スンニ派』は『アラウィー派有力者』を次々と暗殺します。

 

ハーフィズはこれに対して一切の妥協はせず、武力により『スンニ派』の中の『ムスリム同胞団』を弾圧してしまいます。

シリア史における最悪の出来事とも言われる『ハマー虐殺』です。

 

ハーフィズは『アラブ民族主義』も主張していたのでそのためには自分が支配者になり、推し進めていかなければならない、という大義名分のもと、支配を正当化していきます。

これが『アサド政権の独裁』です。

 

次男が行った腐敗一掃政策

ハーフィズの次男にバッシャールという人物がいます。

バッシャールはもともと医者でした。本来ならバッシャールの兄が父親のあとを継ぐ予定でしたが兄は事故で亡くなってしまいます。

ロンドンで医師をしていたバッシャールは、兄の意思を継ぎ父親の後継者になることを決意し、父親に呼び戻されたバッシャールはシリアに戻ります。

軍医の経験があったため軍人として高級キャリアの道を歩みはじめます。

 

父親のもとで政治に関わりはじめたバッシャールは、自分がロンドンで見てきた政治と、シリアで行われている政治が大きく違うのに気がつきます。

警察への賄賂の横行や汚職がひどく、まずはこれを正すために『腐敗一掃』政策を打ち出し、実行しました。

横領や汚職疑惑のある政治家を除名し、粛清していきました。党や政府の高官が次々と逮捕されていきました。

 

欧米との関係改善などの改革も行われ、民主化を目指したこれらの一連の改革は『ダマスカスの春』と呼ばれています。

2000年6月にハーフィズ・アサド大統領が死去すると、バアス党書記長に就任、7月には国民の投票によりバッシャールは次の大統領に就任しました。

 

バッシャール・アサド政権のはじまり

バッシャールも『アラウィー派』でしたが、父親ほどの『アラウィー派優遇』は見せず、独裁色も薄まり集団指導体制へと変化していきました。

バアス党書記長でもあるバッシャールが目指したのは、宗教や民族の違いによる確執や亀裂のない社会です。

先ほど説明した、『ダマスカスの春』と呼ばれる民主化運動は市民間にも支持されており継続していました。

 

バッシャールは英国育ちの『スンニ派』の女性と結婚し、バッシャール夫人は、いままで閉鎖的であったシリアの対外アピールへも一役買うことを期待されました。

 

父親の独裁時の言論統制も解除し、バッシャールは引き続き民主化を目指しますが、父親時代からの古い官僚たちにとってこの大統領は『ぽっと出のハーフィズの息子』でしかなく、バッシャールの改革に反対し、なかなか改革は進みませんでした。

 

バッシャールも独裁を開始

2003年となりの国イラクでアメリカが『イラク戦争』を起こします。

これは2001年の9.11アメリカ同時多発テロの首謀者であるテロ組織を、イラクが匿っているのではないか、というマスコミの誇大な報道によりアメリカ国民のイラクに対する敵対心が増し、アメリカがイラクに侵攻する呼び水になったのではと言われています。

※現在は、調査によりイラクはテロに関与していないということがわかり、当時のアメリカ大統領であるブッシュ大統領もはっきりと認めています。

 

イラクで、政権を握っていた『サダム・フセイン(サッダーム・フセイン)』もバッシャールとおなじ『バアス党』です。

隣の国の政権が武力で簡単に崩落した事実に、バッシャールは焦りました。

国民を締め上げて統制し、政権の不安定さをなくなさければと考えました。

 

いままで許していたデモ活動や集会を禁じました。もとはバッシャールが支援していたはずの民主活動家も逮捕されました。言論統制の強化や移動の自由制限をし、民主化とは逆のやり方でシリアを統制しようとしました。

 

民衆は突然の締め付けにもちろん反発心を強めました。

 

近隣国のグルジアでも、民主化運動により政権が転覆したりする流れがあり、それもバッシャールの独裁化に拍車をかけました。

 

シリア内戦と言われる状態のはじまり(2011年~)

アラブの春と呼ばれる民主化運動

そんな中、2011年エジプトとチュニジアで民主化運動により権威主義政権が倒れるという出来事がおこりました。

この改革を『アラブの春』と呼びます。

 

この流れは、シリアにも届きました。

シリアの国民も政府に対して生活の改善を求めて市民運動を起こしました。このときはまだ、大統領退陣を求める動きはなく、あくまでも生活格差が開き続けることに対しての改善要求でしかありませんでした。

バッシャール大統領はどのような対応をしたのでしょうか?

 

バッシャールは『アメと鞭』の対応でデモの沈静化をはかりました。

内閣総辞職、憲法改正、言論と報道の自由化などです。これにより国民と対話し、デモの拡大を防ごうとしました。

もう一方で、すでに起こっている市民運動に対しては過酷に弾圧していきました。武装している市民もいましたが、非武装の市民に対しても厳しい弾圧を行いました。

 

それにより、市民の心は政府から徐々に離れていってしまいました

 

市民運動から、武力抗争へと変化

市民の心は離れていってしまいました。

それにより、市民運動は政府の退陣を求める動きに変わりました。

 

打倒政府、のデモ活動のなかで、武器を持つ者の暴力の行使が見られるようになってきました。すると、政府の国軍・治安部隊による武力による応戦がはじまりました。

 

そうなると、武力を持たない市民はこの運動から遠ざかるしかなくなります。

 

この頃、反政府を掲げる人達の寄合所帯である『自由シリア軍』という軍隊が結成されます。

 

元々主役だった市民は脱落せざるを得なくなり、この運動は5ヶ月たらずで、一部の武器を持つ若者や自由シリア軍が政府に対して退陣を求める武力抗争へと変化を遂げました。

 

国際問題の絡んだ抗争へと発展

『自由シリア軍』の攻撃に対して、シリア政府は『シリア国軍武装部隊』と呼ばれる軍で応戦しました。

この国軍武装部隊は重装備の精鋭部隊で、言うなればアサド政権に忠実な仕官の登用を繰り返して徐々に築き上げてきた部隊です。装甲者や戦車も有します。

 

対する『自由シリア軍』ですが、こちらは寄せ集めの即席部隊に過ぎず、もともと用意できた武器は小火器程度に過ぎません。装備面でも忠誠心の面でも明らかな戦力差があるはずでした。

しかし長い間『自由シリア軍』を中心にした反政府軍は『政府』に倒されることなく戦い続けることが出来たのです。それはなぜでしょうか。

 

答えは単純で、「政府と戦うのに充分な武器があった」からです。

その武器・武力はどこから得たものなのかというと、シリアの外からの流入です。

それが今回の騒乱を大きく複雑なものにしている原因のひとつでもあります。

 

国際化による、騒乱の複雑化

国際化とはどういうことをいうのでしょうか。

シリア国内のみの争いであったはずなのですが、さらに3つのチームが参戦表明してきました。

 

●アサド政権を倒したいと考えている諸外国(米、英、フランス、ドイツ、ポルトガルなどの欧米諸国、サウジアラビア、トルコ、カタール)

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●弾圧により亡命を余儀なくされた反アサド政権の古参の組織(在外シリア人)

 

●武装した過激なサラフィー主義者(伝統的な初期のイスラム教の指針に回帰しようという宗派)

 

これらの人たちもシリアの騒乱に混ざってきてしまったのです。

 

まずはじめに、打倒アサド政権を掲げる諸外国の存在です。これらの国は、シリアの民主化を求める意見が一致しました。

反政府勢力(自由シリア軍)には物資や武器の支援をしながら、アサド政権に対しては経済制裁や外交の圧力をかけました。

 

次に在外シリア人です。

このひとたちは元々反政府として活動しており、政府の弾圧により国外に逃亡するはめになった人たちです。亡命後もシリアの国外で活動しており、反政府の活動を諸外国に認めてもらうために奔走しました。

そして今回のシリア国内での騒動を、政権奪取の契機と感じました。

しかし注意すべきは、国外で反政府活動をしていた彼らは無傷で、国内で活動している者が血を流しているという事実です。

そのため、国内組と海外組には深い溝があり、同じ未来を見ているにも関わらず相容れないものがありました。海外組の中でも激しい権力争いがあり、不安定な組織であったといえます。

 

最後にサラフィー主義者です。

サラフィー主義とは、本来は初期イスラームに回帰せよという宗派です。その中でも武力行使を厭わない一部の過激派はサラフィー・ジハード主義と呼ばれ、その活躍の場をシリア内戦に見いだし参入してきました。

ヌスラ戦線』という組織を名乗り武装しシリア国内で活動しています。

『ヌスラ戦線』はアメリカをはじめとする諸外国からテロ組織と認定されています。

しかし、アメリカをはじめとする諸外国は『打倒アサド政権』であるため、シリア国内の反政府軍の味方です。反政府軍に武器を支援しておりその武器は『ヌスラ戦線』の手に渡ったと言われています。

以上が反政府軍の味方です。

 

そして、アサド政権(政府)に味方しているのは、ロシア、イラン、中国です。

 

以上のことにより、反政府軍(自由シリア軍など)は屈強な国軍をもつ政府と対峙する武力を持つことができ、さらには今あげた国以外の近隣諸国の事情も互いに複雑に絡み合って、騒乱は膠着しているのです。

 

シリアの市民はどうなった?

このように武力による抗争が広まり、苦痛を強いられているのはもちろん武器を持たない市民です。

もともと市民運動であった『アラブの春』は、とうにシリア市民の手を離れて、国外勢力も巻き込んでの『戦争』になってしまいました。

市民の最大の関心事はもはや政治的なことではなく、明日を無事に迎えられるか、健やかに生きられるか、なのです。

 

シリアでは戦争により多くの人が亡くなり、多くの国が首を突っ込んでいる状態となったので、国際問題としてとらえられるようになりました。

 

2013年にはG8サミットという国際会議が開かれて、シリア問題の解決に向けて話し合いがされました。

しかし、シリア=アサド政権を支持する【ロシア、中国】と反シリアである【欧米諸国】は意見が合わず話し合いはまとまらずに終わりました。

 

表面的には【シリアを支持するチーム】と【シリアの敵国を支持するチーム】となっており、さも未だにシリア政府vs反政府軍で争っているかのように見えますが、これはシリア支持、不支持を口実にした各国の覇権争いです

 

なぜ、シリアをめぐって各国は争っているのでしょうか?この構図は『アラブの春』よりずっと以前の1978年に起こったある出来事からの流れを汲んで出来上がったものだったのです。

 

【ロシア・中国・イラン】が【シリア=アサド政権】に味方する理由

1978年にエジプトはイスラエルとの和平を単独で結びました。

 

一方で1979年イランでは【イランイスラーム革命】と呼ばれる民衆による革命が起きました。それまでイランはアメリカの援助を受け、脱イスラム化、イスラム教弾圧の近代化政策がとられていました。しかし民衆はイスラム教を取り戻したいという思いがずっとあり、革命によりそれが成されました。

その結果イランはアメリカに敵対心をもたれ【反アメリカ】となりました。同時に、アメリカはイスラエルとの関係が良好であったためイランは【反アメリカ・反イスラエル】となります。

エジプトはイスラエルと和平を結んでいるので【イラン=反アメリカ・反イスラエル・反エジプト】です。

 

このような背景が前提としてあります。

 

シリアはどうだったでしょうか?

シリアの政策は『アラブ民族主義』でした。シリアがアラブ全体として統治したいところをアラブ地域の一部であるパレスチナを【イスラエル】が占領していました。

【シリアvsイスラエル】という構図でした。

 

そしてここにきて【エジプト・イスラエル・アメリカ】は同盟を結んでいます。

敵の敵は味方、です。つまりシリアは上の3国の敵である【イラン】を新たな同盟者としようと近づいていきました。

 

この時点での構図はこうです。

【シリア・イラン】VS【エジプト・イスラエル・最大の支援国アメリカ】

シリアとイランの関係はこの後の歴史の流れにより、さらに強いものになっていきます。

 

そして、ソ連(のちのロシア)はアメリカとはすでに関係は悪化していました。ロシアも中国もアメリカの中東における覇権拡大を恐れていました。

つまり自然な流れで大国【ロシア・中国】は【シリア】に味方しました。

 

ロシアはシリアが好きで支援していたわけではなく、あくまでも中東における戦略的資産としてシリアをアメリカに渡すわけには行かなかったということです。

 

これらの事情により、シリア国内での戦いはより一層複雑化、膠着状態になったのです。

 

複雑化により終わりの見えないシリア内戦

内戦に乗じて参入してきた、IS(イスラム国)

ニュースでよく『IS』『ISIS』『ISIL』という言葉をみかけます。

違いはいったいなんでしょうか?

 

●IS(アイエス・イスラム国)

Islamic Stateの略です。これは2014年に独自に樹立された国家のことです。ただしこの国家は国際的には承認されていません。彼らが自らが名乗るときに『IS』と名乗るよう統一されました。

●ISIS(アイシス・イシス)

Islamic State in Ilaq and Syria(またはSham)の略でイスラム国の前身です。イラクとシリア(またはシャム)のイスラム国という意味です。シャムにはシリアより多くの意味を含みます。

このISISが2014年に『IS』イスラム国の樹立を宣言しました。

●ISIL(アイシル)

Islamic State in Ilaq and the Levantの略でイラクとレバントのイスラム国という意味です。こちらもイスラム国の前身ですが、イスラム国を認めないという立場から国連や日本国政府はこの呼び方をしています。

 

この組織の呼称には賛否あり、ISはイスラム教徒の中の過激派組織の一部に過ぎないのに『イスラム国』と呼ぶことで、関係のない敬虔なイスラム教徒、イスラム教に対して偏見を持たれる可能性があるとして、イスラム教に関係している人たちは『イスラム国』と名乗るこの組織に憤慨しています。

 

『IS』の前身である『ISIS』は2004年に『イラクのアルカイダ』としてイラクで発足し、2006年に『ISIS』と改名しました。

そして国際テロ組織アルカイダと同盟を組みました。どちらも中東にイスラム独立国家を建設したいという思いは共通でしたが、アルカイダより残忍な方法で領土を拡大してきたISISは、2014年にアルカイダから同盟関係を断ち切られてしまいます。

『ISIS』は単なる武装組織ではなく、統治機構を築いています。

最高指導者(カリフ)の元に内閣・シリア担当・イラク担当の官僚がいて、シリア担当官僚とイラク担当官僚の元にはそれぞれお12人の知事がいて、さらにその下に各種評議会があります。

 

『IS』の予備知識はこのくらいにして、この過激組織が力を持った背景には理由があります。

シリア政権(アサド政権)と敵対する国・組織に対して武器支援を行ってきたアメリカやトルコなどの存在がありました。それに乗じて『IS』も力を拡大しました。

 

ヌスラ戦線

ヌスラ戦線、とは上で説明したサラフィー・ジハード主義の者たちが組織した武装集団でした。

2015年から行方が分からなくなっている日本人ジャーナリスト安田純平さんがヌスラ戦線に拘束された、というニュースが報道されたのでそれで知ったという人も多いと思います。

アメリカが、反アサド政権の組織に対して支援していた武器は、ヌスラ戦線にも渡っていたといわれています。それによりさらに力を増していきました。

 

クルド人の武装勢力

シリア北部のクルド人も武装し、ヌスラ戦線との衝突が起こっていたとされています。クルド人は中東各国にまたがり分布する、独自の文字と国家を持たない、民族集団です。

国家をもたない民族集団でしたがヌスラ戦線がクルド人に対する攻撃を強めると、クルド人武装勢力は反撃し、衝突が起こりました。

 

様々な武装勢力が絡み合う中、空爆

複雑な構図の中、シリアの化学兵器使用に対する各国の非難や報復、イスラム国の強大化が起こります。

イスラム国との対峙が続く中、当初の目的であったアサド政権の退陣を求める声は消失していき、今や敵味方判別不能なほどに混沌化してしまいます。

欧米諸国の目的は、イスラム国の打倒に変化していったのです。

※以後イスラム教徒・イスラム教との混同しないためにイスラム国を『ISIS』と表記します。

 

各国の空爆によるISIS攻撃が始まります。

 

2014年6月     所謂『IS』が建国を宣言し、世界各国から戦闘員を募集

2014年8月   『ISIS』を抑えるための空爆をアメリカのオバマ大統領が承認。

イラクの『ISIS』を空爆。『ISIS』は米人ジャーナリスト殺害映像を公開。

2014年9月   アメリカ、オバマ大統領は『ISIS』壊滅の方針を確認。

イラク、ヨルダン、エジプト、レバノンも協力する声明を発表。

※トルコは署名せず

オバマ大統領はイラクの『ISIS』に対して150回の空爆成功と発表。

アメリカはシリア内の『ISIS』打倒のためにシリアへの空爆も開始。

フランスもイラク・シリア内の『ISIS』勢力に対し空爆開始。

サウジ・アラブ首長国連邦・ヨルダン・バーレーン・カタールも空爆参加。

オランダ・ベルギー・デンマークも米国主導の空爆に参加。

イギリス空爆参加。

2014年10月  オーストラリア・カナダが空爆に参加。

2015年1月       シリアの内戦での死者数はすでに23万人を超えた。

仏オランド大統領も『ISIS』に対抗するため空母派遣や空爆強化を表明。

日本の阿部総理も『ISIS』対策に人道支援2億ドル拠出を表明。

2015年9月   ロシアも『ISIS』との戦いを名目に参戦。空爆開始。

 

このように沢山の国がISISに対する空爆に参加しています。

しかしアメリカは「ロシアの空爆はISIS以外の反政府拠点にも攻撃している」と非難しました。アサド大統領はロシアの空爆を支持しました。

2015年10月7日にロシアはカスピ海からミサイルをシリアISISに向けて発射しました。

名目は「パリ同時多発テロの報復ため(フランスのために)」として、この武力行使を正当化しました。

2015年10月12~13日、ロシアは86カ所もの空爆を行い、ISISはロシアに対して明確な対立を表明しました。

 

ここでもまた泥沼化が進み、武器を持たない市民が多く犠牲になるという事実があります。

 

2016年のシリア情勢、行き場のない難民への各国の対応

度重なる空爆が続いたシリアの内戦でしたが、2016年に入り落ち着きを見せてきました。

アサド政権と反政権側の対立はいまだ根深く、根本的な解決につながるかは不明です。

しかし2月11日にアメリカ、ロシア、欧州、中東の17か国が1週間以内の停戦を呼びかけ合意しました。ロシアによる空爆や、反政府側の攻撃を停止し混沌をおさえ、ISISの掃討に集中する狙いです。

3月15日にはロシアは主要部隊の撤退を開始しました。

 

これまでの悲惨な戦争により、住まいがなくなった「難民」は400万人以上にのぼるといわれています。国内に取り残された避難民も700万人以上です。

シリアの総人口の約半分が避難生活を送っているか、海外に亡命せざるを得ない状態です。

世界全体の避難民のうちの5分の1がシリアが生んだ難民です。

戦争が開始してから停戦合意がなされるまで、常に難民は生まれ続け、海外に亡命する人々、亡命することが出来ず苦しい生活を強いられている人は絶えません。

 

ドイツ

主な避難先であるトルコ、レバノン、ヨルダンなどですが避難先はすでにいっぱいです。そこで欧州を目指す難民が増えています。

特にドイツに向かう難民が多く、ドイツは労働力不足の背景もあり、難民を受け入れたいとの意向で難民の生活支援に60億ユーロを拠出。しかしドイツに向かうだけでも、莫大なお金がかかるのです。

戦争により食べ物もお金もないのに、お金がなければ難民になることもできないのです。

 

日本

簡単に難民をうけいれる体制を整えることが難しい事情があるにしても、どの国より難民に対する受け入れに消極的です。

日本に難民申請をしたシリア人60人のうち3人しか認められていないという事実があります。

 

ハンガリー

難民のうけいれには消極的です。シリアから見てハンガリーは欧州の玄関口であり、徒歩で唯一の入国ルートがあります。国境を徒歩で渡れないように封鎖しました。

入国ルートのフェンスに近づく難民を追い払うなどの対応が見られました。

 

ウルグアイ

前大統領の温情により難民の受け入れを決定しましたが、もともと受け入れ出来る余裕のある経済状況ではなく、受け入れられた難民の生活状況は好ましくありません。

 

カナダ

2015年の時点で2016年2月までに2万5千人の難民を受け入れるという表明を出していました。首相が自ら難民を歓迎するなど、報道されました。

 

難民に対する国際的保護を取り仕切るUNHCRの意向

国際難民高等弁務官事務所、という聞きなれない機関があります。

通称UNHCRです。

2016年3月16日に、ここのトップを務めるフィリッポ・グランディ高等弁務官は、各国にシリア難民を40万人ずつ受け入れるよう要請する方針を示しました。

「3月30日に行われる会合で、その場で国際社会に対しすべてのシリア難民の10%を受け入れるように要請する」、と語りました。10%というのが40万人なのです。

 

まずは何が起きたか、今どうなっているかを知ること

2011年から現在まで、どのようなことが起きたのか。

複雑に絡み合う戦争の参加国や背景、被害の状況など理解するのはとても難しいです。

過去におきたことの理解には時間がかかります。しかし今戦争により傷ついた難民がどのくらいいるかは単純に数字を見て知ることが出来ます。

私たちが一人で出来ることは、限られています。難民を受け入れようと、一人が言っても何も動きません。まずは知ることから初めてみてはどうでしょうか。

戦争において誰が悪くて誰が被害者、という明確な線引きは難しいものです。しかし、武器を持たない一般市民、何も知らない子どもたちは明らかに被害者だと思うのです。

 

誰が悪いという偏見を持たずに、現状を知り一人ひとりが考える機会が増えたらいいなと感じます。

 

わかりやすいと話題の動画があります。字幕を日本語にして見てみてください。

 

最新情勢はこちら

最新シリア情勢【2016年3月~】内戦・難民の現在

 

 

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